パウル・クレーが教師(マイスター)として働いたバウ・ハウス、クレーのとってバウ・ハウスとはいったい、どんな意味を持っていたのでしょうか

クレーとバウハウス

バウハウスとは

バウハウスとは建築家のヴァルター・グロピウス(1883-1969)の指揮のもとで1919年4月、ワイマールに設立された 美術(工芸・写真・デザイン等を含む)と建築に関する総合的な学校です。

「バウハウス」は独逸語で「建築の家」を意味します。

グロプウスはバウハウスの目的と方針を以下のように記していました。

『芸術はすべての方法を超越している。芸術それ自体を教えることはできないが、職人的技術ついては教えることができる。 建築家、画家、彫刻家などすべては、もとは職人である(全学生諸君が職人的技術の分野のワークショップで十分な 訓練を受けることが、全ての芸術的創造のための基本として要求される)』

グロピウスは芸術と職人技術の間に基本的な違いはないと考えていて、芸術は職人的な技術の次ぎの段階であるとみていました。 バウハウスでは教師と学生を自らを故意に「親方(マイスター)、職人、見習い」と呼んでいたということです。

バウハウスには開校当初から大きな問題を抱えていました、それは保守派とナチス集団からの攻撃でした。

ワイマールからデッサウに移設したり、グロプウスがバウハウスを去ったりと揉め事は耐えなかったようですが、 最後にはナチス政府に閉鎖されてしまったのです。

学校として存在したのは、1919年から1933年までの14年間のみですが、 亡命した多数の教師や学生が、バウハウスの理想を外国にまで広げていき そして今日、バウハウス様式はモダニズム建築に大きな影響を与えたと言われています。

クレーとバウハウス

クレーは1921年から1930年までバウハウスにマイスターとして在籍していました。

クレーは任命当初はバウハウスの理想に賛同し、情熱を傾けましたが、しだいに芸術活動と教師という 2つの役割に矛盾を感じ始めました。 

決してバウハウスの目的を指示しなくなった訳ではなく、芸術家としての クレーの目的と一致しなくなったのというのが事実ということです。

この頃の心情を表した2通の手紙

リリーへの手紙(1928年)

『内からと外からの要求があまりにも大きく、私は時間の観念を失いそうだ・・・・・やましい心がしつこく私についてくるのだ。 つまり、いつも何か一芸術、学校、人間の問題などについて、口うるさく言われているようなのだ・・・・』

バウハウスの学生であった息子への手紙 1929年

『バウハウスは決して静かになりはしない。もしそうなればバウハウスではない。そこの一員であるならば、たとえ望んでいなくても 協力しなければならない』

クレーの息子であるフェリックスは14歳の時、最も若いバウハウスの学生になりました。

そして、1930年6月24日のリリーへの手紙でクレーはバウハウスで働いた10年間を振り返っています。

『バウハウスでの仕事は、もし何かを創り上げるという画家としての縛られていると感じなければ簡単なことだ。 あるときは本当に簡単にみえた。この条件があったとき、そこでかなりよい状態で過ごせた。仕事自体簡単なものだった。 他に何もやる必要のない人にこの仕事をゆずることができるのだったら、私はその人を大変幸福にすこともできた。 しかしそれでは、その人は芸術家とはならないので、全体がうまくいかなくなる。私よりももっと上手に自分のエネルギーを 配分できるものがやるべきだ。その際、年齢は重要ではない。 』

クレーにとってバウハウスとは、どんな意味を持っていたのでしょう。

クレーは教えるということよりも、芸術理論の体系化に興味があったようです。

「私はまず第一に、働いている芸術家なのです・・・」と言うクレーの言葉からもわかるように、授業や教えるということには、 あまり熱心ではありませんでした。なので、授業を2週間に一度だけにし、同僚にも生徒たちにも全く知らせずに姿を消してしまったこともあったようです。

しかし、クレーにとって芸術理論の体系化はとても魅力のある模索であったようです。 それはなぜなんでしょう。

ひとつの要因として、彼が子供の時代より携わっていた音楽の影響があるようです。 既にこの時代、音楽はその理論の体系化が行なわれ、その教育方法も確立されていました。

クレーにとって、この事は無視できなかったのでしょう、絵画にしても音楽と同じように体系化し教育することはできないのか。 バウハウス時代のクレーのテーマだったのではないでしょうか。

クレーにとってのバウハウスはもう1つの側面がありました、 それはブルジョワ生活への憧れでした。

バウハウスは、クレーに十分な給与、世間に人目置かれる肩書き、広いアトリエがついた特別な家を与えました。 結婚して、息子が生まれ、そしてハウスハズバウンド、その家計のほとんど妻のリリーが支えてきたのです。 クレーにとってこの上流生活はどうでもいいことではなかったのです。

むしろ、このことはクレーにとってバウハウスに10年あまり留まった最も大きな理由であったかもしれません。

こんな話がのこっています。

1920年代後半、バウハウスに経済的な問題が起こったとき、グロピウスは高給取りであったクレーに、給与の引き下げを頼んだ。 ところがクレーはあっさりこの申し出を断っています。

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