クレーは生涯、2つの世界大戦を経験しています、それぞれの戦争はクレーにどのような影響をあたえたのでしょうか

クレーと戦争

クレーは1979年に生まれ、1940年に亡くなっています。

ということは、2度に渡る世界大戦をドイツ国籍として、経験していることになります。

戦争はクレーにどんな影響を与えたのでしょうか、またクレーは戦争をどのように捕らえ表現していたのでしょうか

第一次世界大戦(1914年〜1918年)

「自分の中にこの戦争がずっとある。それは私の心の奥底で戦争とはまったく関係がないのだという理由になっている」

これは1015年の日記でのクレーの言葉です。

これだけをみてしまうと、クレーは戦争に背をむけ、無視し芸術に没頭したかのように思いますが、 1914年にはクレーは芸術家として戦争というテーマもに取り組んでいたのです。

1914年8月から12月までの期間12点の絵の表題が彼の作品集にありそこには「戦場での死」も含まれていました。

しかし、クレーの急進的なほど主観的で抽象的な絵画には戦争に対する彼の思想を表現できる説得力はなかったようです。 そして1915年の終わりには、戦争というテーマを、題名はもちろん、どんなに抽象されていようと絵画に組み入れることを やめていました。

1962年2月にクレーは徴兵令を受け取りました。ランツフードで基礎訓練を受け、 7月20日、ミュンヘンの第2予備歩兵連隊へ移動、これは前線への準備を意味しました。

しかし、8月、シュライスハイムの空軍補充兵部隊に配属され、ここでクレーは航空機を描く仕事についた。 クレーが前線義務から免除されたのは、父のハンスが強力な友人たちの力を借り、権威筋に対しクレーの職業 を知らせた結果だと言われている。 バイエルン王がミュンヘンの芸術家たちの命を助ける命令をだしたことを知っていたのです。

1971年1月16日、新たに配属が変わりゲルストホーフェンの飛行学校で会計係とし配属されます。 クレーはここで終戦を向かえることになります。

クレーはランツフード、シュライスハイム、ゲルストホーフェンそれぞれの配属先でも個室を与えられていて、 日課の仕事が終わってからそこに引きこもり、絵を描くことができました。

1917年はクレーは個展を開催し、多くの絵を売ることができました。

そして、芸術評論家たちはマルクの死後、クレーがドイツで最も重要な画家であると絶賛しました。 この成功には2つの理由がありました。 その1つは、1916年に変えた様式が肯定的に受け入れられ、 そのことにより、クレーが観衆からの影響を受け始めたこと、もうひとつは、戦争用武器の増産による 利益に裕福な人々が増え、購買意欲が増したこと、また、貨幣価値の下落を避け投資目的での購買も おおきな理由になりました。

このように、皮肉にもクレーは自分が背を向けた戦争により芸術家としてのキャリアを確立することになります。 それも、背を向けて芸術活動をしたおかげで。

第二次世界大戦(1939年〜1945年)

第二次世界大戦は1939年から始まったわけですから、クレーにとっては直接的な影響はなかったように思えますが、 クレーの晩年の2つ苦難の1つの原因となってしまいました。 それは、戦争前夜の混乱期、ナチスからの迫害という形でクレーを苦しめました。

世界大戦勃発6年前、1933年1月30日、アドルフ・ヒトラーがドイツ帝国首相として指名されました。 当時クレーはバウハウスを辞めデュッセルドルフの美術学校で4人の学生に教えていましたが、即時解雇されました。 これは、いわゆる非アーリア人全てを公務員から排除するという、「ドイツ公務員の再編成法」のためでした。

クレーが美術学校の講師として留まるためには、「アーリア人血統証明書」が必要であったが、 リリーへの手紙のなかで次ぎのように書いている

バティソン女史は指摘する「彼は3つの意味でスイスでも偏見にさらされていました。1つ目は共産党ボリシェビキの活動家として、2つ目はドイツ人として、3つ目は左翼インテリとして。でも、実際これのどれも、本当には正しくはなかったのです」。

1937年、ナチス政権は「退廃芸術」として700点もの現代美術作品を展示し、この中に17点ものクレーの作品が入っていました。 これにより、彼の作品はドイツ中のギャラリーから取り外されたのです。

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