クレーのたくさんの言葉は、クレーの生の声であり、推測や憶測ではない、クレーの気持ちを理解することができます。

クレーの言葉

クレーはたくさんの言葉を残しています。 それは日記であったり手紙であったり、単なるメモであったりと 様々な形となっています。 日記には全て通し番号が付けられていたほどです。

クレーの言葉により、推測ではないクレーの生の声を聴く事ができます。

『芸術とは単に見えるもののかたちをそのままかたどるこなのではなく「見えるようすること」なのです。』

『どれほどの幸福を数線で表されうるのか』

(1933年 1月31日の手紙)

『私をこの世で理解することはできない。なぜなら、私はまだ生まれていない者や死者のところに同居しているからだ。 創造の真髄にかなり近寄ってははいるが、まだ十分近いとはいえない。  私は暖かさを放射しているのだろうか。冷たさだろうか。 白熱を超えるとき、こんなことは語られない。  遠ざかるほど、私は一層信心深くなる。この世では、ときどき他者の不幸を喜んでしまう。

ひとつのものにも違ったニュアンスがあるのだ。 牧師たちはそれを見るのに十分信心深くはない。  それに著述家たちは少し憤りを覚える。』

『色が私を離さない。いつも私にとりついている。こんな幸福な時間はない。色と私は一体だ。私は画家なのだ』

(日記9260 1941年)

『抽象とは何か。画家として抽象的であるとは、自然である対象を比較の方法を抽象化することでなく、 こうした可能な比較の形式から離れて、絵画的に純粋な関係を抽出するところに基礎をおくことである。 ・・・・絵画的に純粋な関係とは、つまり明と暗、色と明暗、色と色、長と短、幅の大小、鈍角と鋭角、左と右、 上と下、前後、丸と四画と三角の関係である』

(バウハウス時代、教授用ノート)

『自分の中にこの戦争がずっとある。それは私の心の奥底で戦争とはまったく関係がないのだという理由になっている』

(日記952 1915年)

『もし社会主義がすべての才能に適した環境を作ることを目指し、それができるものなら、私も社会主義のひとりになろう。 だが、何事についてもそうなのだが、私には信じるということができない。 そういっても社会主義には反対しない、なぜなら唯一の好ましい運動なのだから』

(リリーへの手紙 1902年)

『世俗を去り、そのかわり完全な世界であるあちらへ渡る。 抽象化された美術の、情念のない冷静なロマン主義は聞いたこともない。 この世界が恐怖に満ちていればいるほど(たとえば今日のように)、芸術は抽象的となり、 幸福な世界は世俗的な芸術を創造する。』

(日記951 1915年)

『内からと外からの要求があまりにも大きく、私は時間の観念を失いそうだ・・・・・やましい心がしつこく私についてくるのだ。 つまり、いつも何か一芸術、学校、人間の問題などについて、口うるさく言われているようなのだ・・・・』

(バウハウスについて リリーへの手紙 1928年)

『バウハウスは決して静かになりはしない。もしそうなればバウハウスではない。そこの一員であるならば、たとえ望んでいなくても 協力しなければならない』

(バウハウスについて バウハウスの学生であった息子への手紙 1929年 )

『バウハウスでの仕事は、もし何かを創り上げるという画家としての縛られていると感じなければ簡単なことだ。 あるときは本当に簡単にみえた。この条件があったとき、そこでかなりよい状態で過ごせた。仕事自体簡単なものだった。 他に何もやる必要のない人にこの仕事をゆずることができるのだったら、私はその人を大変幸福にすこともできた。 しかしそれでは、その人は芸術家とはならないので、全体がうまくいかなくなる。私よりももっと上手に自分のエネルギーを 配分できるものがやるべきだ。その際、年齢は重要ではない。』

(バウハウスで働いた10年を振り返って リリーへの手紙 1930年6月24日)

『これは『民主的』な政府だから、全く過激な方法で統治しない限り、議会の右寄りに多数が集まる ヒトラーは副首相パペルから少しずつ離れ、完全にレールから外れてしまうだろう 私はもうすでに物事を変えるために何かができるだろうとは思わない。このことに関しては愚かなのだ。』

(ヒトラーが帝国首相として指名された日 リリーへの手紙 1933年1月30日)

『私の仕事と給料が落ち着かないのは自覚している。だからといって、くよくよ悩むことはない。反対にそんなに 心配すれば病気になるだけだ・・・・』

『正式にそれを出せと言われたら提出しよう。しかしそんな原始的な言いがかりに自ら応じることは、私の尊厳を傷付ける。 もし、私が実際にガリシアのユダヤ人であっても、その事実は私の人格や仕事の価値を少しも変えることはない。 私の個人的な考えは、ユダヤ人でも外国人でも、ドイツ人やその土地の人より価値が劣るということは決してないということであって、 この考え方を捨ててはならないと思う。もし捨てるなら、子孫にばか者と思われるだろう。権力にへつらう悲喜劇的な人物になるよりは、 問題に巻き込まれた方がまだましだ。』

(リリーへの手紙 1933年4月6日 デュッセルドルフから)

『世の中は簡単に消化できる事柄だけで成り立っているのではないかということに、がっかりしてはいけない。 重苦しさも結局は他の力うまく均衡がとれるのだという希望を捨ててはならない。これが人生をブルジョアより ずっと魅力的にしていることに間違いない。そして私たちはそれじれの好みによって、甘いもの苦いもの、 ふたつのお椀から取って味わうべきなのだ。注意深さと知性があれば、だれも大きな幻想に屈することはないだろう』

(『甘く苦い鳥』について 1938年1月 義理の娘の誕生日の手紙より)

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